城崎から帰還して数日後に「焚火」を読んだ。

「焚火」には赤城山に滞在中の友人たちとの交遊の様子を、トランプ、木登り、船遊び、焚火を材料にして綴られている。地元を舞台にしているのだから知っておいた方が良いだろうと思ったのがきっかけ。ところが、書かれている場所が凡そ見当が付くから面白くなってしまった。最後の方の、焚火を囲みながらKさんの不思議な体験談を聞くところは、吸い込まれるように読んでしまい、焚火の後始末をする時の、湖面に投げ込んだ赤い火が水面にも映し出されるところとか、赤い火が水に入った瞬間に訪れる暗闇などが、映像が浮かんでくるようでした。

富士見商工会発行2015年2月1日 
4頁右下に志賀直哉の写真が掲載されている。

赤城山ビジターセンターには志賀直哉の写真が大きく飾られていて、大正4年5月から5ヶ月間にわたって滞在していた時の、焚火に登場するkさん(猪谷六合雄)が作った山小屋の前(たぶん)で寛いでいるところが写っていますが、前にも書きましたが、結婚した翌年で、奥様の心労を癒す目的での滞在だとしても、5ヶ月間も滞在できる財力は何処にあったのだろう?と思わずにはいられませんね(笑) 元々のお金持ちとしか考えられませんけど。

城崎滞在 1913年10月(大正2年)~11月 「城崎にて」1917年5月発表。     赤城山滞在1914年5月~5か月間 「焚火」1920年4月発表。         そうか、100年以上も前のことなのか~と感慨無量。

で…この小屋は何処にあったのだろう?少し興味が湧いています。笹熊って??どんな熊なのかな?夜の大沼に漕ぎ出す?わーっ!楽しそう! 読んでいると不思議なことも山盛りでした。

「当時の赤城神社の場所は今の小鳥島ではなくて、湖の東南の岸辺なので、そのことが分からないと「焚火」に書かれている位置が掴めないかもしれない。」「kさんに作ってもらった山小屋はたぶん〇△□◎だと思う。」青木旅館でお茶を飲みながら、伝え聞いているという当時の話も教えていただいた。

自分はスタンフォード大学の100年前の日本古地図を見ていた。その地図によると、水沼から利平茶屋を経由して赤城山鳥居峠に道が続いていて、これを歩くと12km。志賀直哉は奥さまを連れてこの道を歩いたのだろうか。まだケーブルカーのない頃の話。古地図には箕輪まで道路が書かれているから、車で到着して、箕輪から大沼畔まで歩いたかもしれない。幸田露伴が明治23年に当時の地獄谷温泉に滞在して「地獄渓日記」を書いているから、こちらからも入山する方たちもたくさんいたのだ。日本鉄道が明治17年に前橋駅まで延伸させている。

「でも、与謝野晶子・鉄幹夫妻は前橋駅から赤城山まで歩いて来たんですよ。」志賀直哉は果たして何処から赤城山に入ったのだろうか。足尾線は当時、水沼駅が完成したばかりだったことと、父親が足尾銅山に関わりがあったからこちら方面に親和性があったので、水沼方面からの入山を選択したのではないかと、妄想を膨らませていますが果たして・・・。

雨が止んで久しぶりに太陽の光を感じた。梅雨明けはもうすぐ。

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