北海道に向かって北上するフェリーの上から三陸海岸を見たいと思っていた。R45を南下しながら見た震災後の復興現場の様子が自分には消化し切れなくて、気持ちの整理がつかないままで、帰還してから書いたブログ ( 7/3-4 )も下書きのままにしていた。

Screenshot_20160709-033159 (1)フェリーの夕食時間は早い。前日までの準備で疲れ気味だったので、入浴と食事を済ませて横になったら寝てしまい、気が付いたら二時間も経過していた。船はまだ南相馬付近を北上中だ。甲板に出てみるけど真っ暗で何も見えない。このまま北上すると三陸海岸は日の出前後になるらしい。電波が入る展望デッキで情報整理をして23時頃に再び横になった。3時半過ぎに起床して甲板に出たら生憎の雨だった。

三陸海岸は日の出前の青い時間を終えて日の出 4:13amを迎えると、空が紫色に染まって荘厳な雰囲気に満たされてきた。大型船特有のエンジン音が重く低く響いて、波の音が僅かに聞こえているだけの静けさの中で、自分は少し落ち着いた気持ちで三陸海岸を見つめることができた。MESAの草山さんが教えてくれた本州最東端の魹ヶ崎(とどがさき)の灯台の光が小さく見えていた。失われた多くの命のことを思う時間がもてた。雨雲は宮古を過ぎたあたりから消えてなくなり、高曇りの空に変わった。DSC_0100DSC_0107

調べてみたら帰りのフェリーもほぼ同じ時刻に通過することが分かったので、その時刻に目を覚まして甲板で日の出を待った。爽やかに晴れわたった空に日が昇り、往きの時の重く立ち込めた日の出とは対照的だった。三陸海岸は棚引いた雲の下にあり、少しだけ雲を赤く染めた。今回も静かに海岸線を見ることができた。甲板には、自分と同じように静かに海岸線方向を見つめている人がいた。DSC_0408 DSC_0412

往路の撮影の後でスマホが突然機能しなくなったことは前述のとおり。でも、何枚かの写真と雨雲レーダー図と位置情報とをところどころで残してくれていたのは不思議というか奇跡。機能しなくなった当日のことや回復してからが、往路・復路の日の出や雲の映像みたいに見えるので、これを象徴的だとか暗示的だと言うのは面白いけれど、それ以上に考えすぎないようにする。大切なことは、往路・復路に甲板に立って静かな気持ちで海岸線に目を向けられたことで、R45を南下した時には撮れなかった写真を海上から撮ることができたこと。生きている人はみな悲しみを内包しながら淡々と頑張っているのだから、自分も頑張ろうと思ったこと。生きていられることに感謝して、自分の目標や課題に向かって更に進んでいこうと思ったことだ。

福島あたりまで南下してくると海岸線に白い建物群がポツリポツリと並んで見えてきた。Google mapによると福島第一原発あたりになる。その後には火力発電所の白い煙突も視認できた。ここでも命を失ったり、生活の場所を失った多くの方々がいる。そのことを思いながらこと長い海岸線を見ることができた。

三陸海岸を6月に陸地側から、7月には海側から見ることになった。見ている自分自身にもこの5年間に色々なことがあった。新しい資格を取得したり、新しい仲間との出会いがあった一方で、父母をはじめとした悲しい別れがたくさんあった。色々なことがあるけれどもっと前向きに生きていこうと決めたのが成長したところかもしれない。三陸海岸のことはこれからも考え続けていくつもり。出来たら近いうちに、来夏には必ずMESA草山さんに会いに行こうと決めている。

 

 

(以下はそれぞれの日付に書いた下書きなのでイタリック表示にしました。)

2016/07/03 三陸海岸でカヤックを漕ぐことが叶ったのは前述のとおり。前日まで海上波浪注意報が出ていたので海にはうねりが若干残っていて、影響を受けない山田湾を選択したのはMESA草山さんの判断だった。シーカヤックに乗ることが目的で辿り着いた三陸海岸だったので、実現することが最優先だった。思ったよりも快適に漕げた様子も前述のとおり。IMG_9550「山田湾と言えば牡蠣の名産地だよ!」 らしい。海に浮かべられた牡蠣筏は殆ど津波に流されてしまったので、木製の筏からオレンジ色のプラスティックのブイの筏方式に変わって、オレンジ色の浮き玉が遠く波間に浮かんでいる。この方法に変えたら牡蠣の生育が良くなって、生産や出荷も順調だと言う。良いこともあったのだ。山田湾のある山田町では震災で687人が亡くなり148人が行方不明。山田湾でカヤックを漕ぎ出す場所のすぐ近くでは大型建設工事:道路工事が行われていた。茶色の砂地が広がっているところが津波に流された場所かもしれない。

MESA草山さんは大津波で所有していたカヤック20艇余りと事務所を流されたと言う。現在は友人・知人から艇を借り集めたり、新たに買い求めたりして営業していると言う。今は仮事務所を釜石市内に設けているけれど、来年には前の事務所があった場所に宿泊設備を兼ねた新事務所を建設する予定だと話してくれた。「是非泊まりに来てくれ!一緒に飲もう!」と誘われてしまった。たぶん行くだろうと思う。とても明るく、前を向いて突き進んでいる印象がある。震災後5年が経過したからなのだろうか。人柄なのか。DSC_0318夜、飲みに出かけた「岬」の親父さんは館林の出身で、釜石生活は40年になると言う。一軒目の店は津波に飲み込まれてしまったけどこの店は残ったので、その年の9月には営業再開できたと言う。当時、津波が押し寄せた建物の中で飲んでいる不思議な気分を味わう。その日、親父さんは二階に避難していたけど、腰の高さまで水が押し寄せてきたと話した。どんな思いでいたのかは聞けなかった。たまたま昔作りの堅牢な建物だったために残れたのだろうと言った。確かに、この店の北側は広々とした土地が開いていて現在は駐車場に利用されている。「自然災害だからね~、余りにも凄すぎて、笑っちゃいましたよ!」 それ程までの気持ちになること。お薦めのマンボウホルモンとホヤの大葉巻き。地元のお酒:浜千鳥が美味しかった。気晴らしに釜石湾でウインドサーフィンを楽しんでいる様子。「本当は駄目なんだけどね~。」震災直後から逞しく活動していた様子が伺えた。今も仮設住宅でお住まいだと仰っていた。翌朝、かなり早起きして海岸から山手、住宅街を歩き回った。至るところに津波の到達位置を示した水色のプレートが建物の壁面に記されていた。住宅の一部には往時のまま、壁に穴が開けられたまま、物がぶつかって破損した建物なども見受けられたが、この他に、当時のことを思わせるよなものは何もなかった。山手の寺にも足を伸ばしてみた。高台から釜石の街が見下ろせた。釜石市内では993人の命が奪われ、未だに行方不明の方が152人いる。DSC_0316DSC_0312

 

2016/07/04 山田湾を出て国道45号線を南三陸町あたりまで南下することに決めたのは前述のとおり。自分がもし派遣されたとしたら訪れたであろう場所も車窓から眺めたいと思いながら車を走らせた。走りながら撮れるところは撮ろうと決めて、最初のうちは車を乗り降りしながら撮っていたけれど、それも何枚か、初めのうちだけで、大槌町から大船渡、陸前高田、気仙沼と南下していくうちに撮れなくなってしまった。@39.1563058,141.9948255,10zTVの映像で見たことのある光景が目の前に広がっている。釜石の街中とは違った広がりが目の前にある。その規模の大きさは撮りきれないと思ったり、自分が撮っていることが良いのかなと思ったら、急にカメラを持てなくなってしまった。夥しい数の大型の建設機械が赤茶けた砂地の上を行き来していて、大型の土木工事:防波堤の建設や新しい道路を建設している様子が見られた。奇跡の一本松も見た。

瓦礫に埋もれていた直後の街中の様子を撮る方が震災の姿を表現するのには合っていたけれど、5年後の今となってみると改めて写真にするには主張したいものを持っていないと撮れないような気になったのだろう。物見遊山とか興味本位とかでカメラを向けるのは気後れしたというか失礼になると思ったのが近いかもしれない。しっかりと撮るなら現地に滞在するか何回か通うかして、じっくりと向き合ったら良いように思えたからで、そういう準備がないままカメラを向けられないと思ったからだろう。目の前に広がっている砂地の広がりに腰が引けてしまったのかも。そこにはたくさんの方たちの生活があった。

犠牲になられたたくさんの方、未だに行方不明の方も。その周辺にはたくさんの悲しみを抱えた方たちがいる。震災に遭遇した後の苦難を乗り越えて暮らしを建て直し、希望を胸にまた歩き始めた方たちもいる。MESAの草山さんや「岬」の親父さんと少し話ができたけど、彼らの口からは深刻な話のひとつも聞けなかった。東北人のイメージにあるのは無口とか寡黙で、日本海側の厳しい自然環境に生きる人たちのことをオーバーラップさせて、そうに捉えていたけれど、震災後の三陸に生きる人たちもまた悲しみを内包させて生きているのだ。

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